<少女監禁>小林容疑者、少女の実家から複数回仕送りさせる
久しぶりに感傷的なことを書こう。 今日の朝のニュースで小林(前はキムラだったらしい)から逃れた少女は木更津のカトリック教会に逃げこんだらしい。おりしも教会からは聖歌が流れてきており、幼い頃キリスト教会に集ったこともあった少女はその歌声に導かれるように教会の中に入って行ったという。 そこで、少女の異常に気が付いた神父と信徒たちは丁重にかつ慎重に少女を扱ったと言う。警察を呼ぼうと言う信徒たちの申し出におびえた少女の意思を汲んで、しばらくは教会で身柄を保護することを決めたそうだ。 安堵した少女はマリア像の元で眠ってしまっていたと、信徒の代表者は語っていた。 少女はそのまま同教会信徒が経営するホテルに宿泊し心と体の傷を癒したと言う。(そう簡単には癒えないだろうが、癒しの最初の一歩であったことは間違いない) 同教会の神父は外国人であるが、カウンセラーの資格を持っているそうで、その点でもこの少女はラッキーだった。 と言うか、抹香くさい話を許されるなら、これは奇蹟と言う他ない。 ところで、そろそろ、ひとりひとりの人間の力を私たちは見直しても良いのではないだろうか? 尼崎の脱線事故で活躍した近隣の人々もそうだ、個々の人がやむにやまれず立ち上がるとき、あるいはふとした善意を示す時、それは確実に他者の心に響く。それをもっと評価して、もっと今後も生まれるようにするべきだ。 もちろん、法の整備や行政システムの強化などは大切だ。しかし、それより高いものが人間にはある。 木更津の教会が杓子定規に「このケースは警察に連絡して」「親権のある親御さんに電話を」「行政の相談所に連れて行こう」などと考えたらどうなっていただろう。 脱線事故の近隣の人々が「救助は救急隊とJRの責任」と判断して傍観を決め込んでいたらどうなっていただろうか。 法やシステムを超えるものを人は持っているのだと思う。しかし、それを抑制したり、自制したりすることで「現代」は発展して来た。そろそろ見直しても良くはないだろうか。 明治の宗教家木下尚江はこう言った「そもそも宗教と法律と何れが高尚なるかと云へば宗教なりとす」と。ここで人に宗教を押し付ける気はないし、現代ではそれは危険かもしれない。しかし、法よりも高尚なものに従う(自分も含めて)人を私たちは創造して行かないといけない。 そんなことを思った。
by garyoan
| 2005-05-16 20:31
| 酔郷から
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