<靖国神社参拝>自民衆参議員有志が「勉強会」開く
最近、「靖国問題」(高橋哲哉:ちくま新書)という本を読んだ。大変、勉強になる本だった。 靖国神社とヤスクニという新興宗教が何かと言うことをそうとうスッキリ整理できたように思う。 そんな中で、この記事だ。 ヤスクニ擁護派議員は「靖国参拝を支持する若手国会議員の会」とあるが、参拝するのが良いことか悪いことかだけを論じていて良いのか。 かたや批判的な「勉強会」も「日本は東京裁判を受諾し国際社会に復帰した。国際条約を守ることは憲法にもある。勇気のいることだが首相は大局的判断をすべきだ」と参拝是非問題に留まっている。 しかし、ヤスクニ問題の核心はもっと深いところにある。恐らく、両陣営ともそのことは分かっているが、「ややこしくなるので、考える事を避けている」のだろう。 それは、「靖国問題」の著者が指摘するように戦前には宗教を超越した宗教であったヤスクニを戦後決算としてどう処理するかと言う問題である。 ヤスクニは表向き伝統的神道の形式を見せながらも、その実体は全く新しい鎮護国家のために作られた官製新興宗教であった。それは、全ての宗教の上に置かれていたわけで、そのため、キリスト者であれ仏教者であれ全てが「参拝すべき」対象であった。 しかし、敗戦によってヤスクニは法的には普通の宗教団体になり果てた。単に一つの宗教団体であるのだが、戦前の影響と、戦没者を祀る性格からなおもこの「超宗教的施設」と言う権威を靖国神社は保持したままなのだ。 私は靖国神社が普通の神社のように日本人の年中行事に同化したものになるのであれば、それは「追悼施設」として十分意味を持つものであると思う。 ただし、そこには「追悼ではなく顕彰」を教義とするヤスクニがある。この厄介な宗教がある限り(あるいは教義を大きく改変しない限り)靖国神社は追悼施設になりえないであろう。 いわば、靖国神社から宗教としてのヤスクニを分祀するわけである。 靖国神社が宗教問題であると私が言うのはここだ。 宗教問題を論じると言ってもそれは現実離れした空論の応酬でない。きちんと宗教としてのヤスクニを検証し、戦後の決算のひとつとして葬らなければならない。
by garyoan
| 2005-07-12 22:49
| 酔郷から
|
カレンダー
以前の記事
2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 *-*-*-*-*
お気に入りブログ
最新のトラックバック
カテゴリ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||