出現系奇蹟のうさんくささ

木にキリストの顔が現れる | Excite エキサイト
c0024167_7355954.jpg少し前にかびの生えたサンドイッチに聖母マリアが現れたという記事があった。詳細は忘れたが、その後に地下鉄の壁面にイエス・キリストの姿が現れたとか言うのがあった。そして今後は木の切り口に・・・。科学万能の時代でも神様たちは大忙しだ。
しかし、これはインターネットで情報が世界規模になったせいなのだろう。元々この種の出現系の奇跡物語は珍しくもなんともない。この手の奇跡を信じる信仰者の人には悪いが「首なしライダー」や「トイレの花子さん」と同じレベルのものだ。

特にこの記事

「キリストの顔」は、近くで見るとはっきり分からないが、木から2~3メートル離れて眺めると顔に見えるとのこと。地元紙が伝えたところによると、枝が切り取られたのは約1年前のことで、顔が現れたのは最近のことだという。

は、心霊写真レベルの話ではないか。心が恐怖に向わずに感動に向いていると言うだけの違いだ。

無神論者は単なる「造化のいたずら」だとしている。

いやあ。キリスト教徒でも普通はこうした出現は否定する。地元教会司祭はこんなケチな方法で信仰心を鼓舞するのはやめて堂々と「奇蹟ではない」というべきだ。

しかし、最初に挙げたカビたサンドイッチのことでも分かることだが、この種の話で共通する疑問は

 「なぜ、マリアやイエスだと分かるんだ?」

ということだ。サンドイッチのマリアも欧米人の顔だ。マリアもイエスもユダヤ系だからそんははずはないだろう。

 「お前ら!ホントの顔見たんかい?」

と突っ込みたくなる。

弁天さんや不動明王ではダメなのか?
もし、日本で発見されたらキリストにされていた可能性はほとんどないだろう。
結局、人間サイドに「もっと信じたい」と言う願望があるので、奇蹟は簡単に製造される。この種の非日常的な事を事実とすれば、わずらわしい現実をジャンプできる。進化論も宗教観の対立も一発の奇蹟でジャンプできる。世の中が進歩すればするほど、この越えねばならないものは大きくなる。だから、比例して人は奇蹟を求めことになる。「私は見た」「体験した」というのは絶対的解決だから。

モルモン教の話をしておこう。
モルモン教のはじまりはジョセフ・スミスの見神ということになっている。少年ジョセフが神とイエスに森で出会うと言う話だ。これは後世の作り話だが、もし本当だとしてもどうだろうか。そんなに重要な話だろうか?マリアやイエスはしょっちゅうどこかに出現している。それと一体どこが違うと言うのか?
モルモン教の巧みな点はこの体験を信者候補者に「祈って真実かどうか確かめて下さい」という点にある。(祈ることが確かめになると言うこと自体がヘンだが・・・)奇蹟体験を共有させるわけである。あとはジャンプしてもらうだけのことだ。
こうしたジャンプを意図的に仕組むことはマインド・コントロールのテクニックなのだ

by garyoan | 2005-07-31 08:44 | モルモン教
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