茨木のり子「六月」に思う

なんかホリエモンが保釈されるかもしれないそうで・・・。
堀江時代のライブドア商法は虚業だという。それはそうだったと思う。
だがしかし、現代社会はこうした一種の「虚業」に依拠して成立していないだろうか。原油価格の高騰も産油の実態と言うよりも投機としての理由が大きいと言う。
そんな社会をひとくくりに批判するつもりもない。正直、私もそうだが、こんな世界から恩恵を受けている。
私の友人が都会を離れてしばらく消息を断ちたいと言っていた。私も半ば同意し、同行したいものだと申し出たが、友人は「君ともしばらく音信不通だ」といわれて、苦笑した。
そして、帰宅してふいに思い浮かんだ、茨木のり子のあまりに美しく力強い詩。

    六月

     どこかに美しい村はないか
     一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒
     鍬を立てかけ 籠を置き
     男も女も大きなジョッキをかたむける

     どこかに美しい街はないか
     食べられる実をつけた街路樹が
     どこまでも続き すみれいろした夕暮は
     若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

     どこかに美しい人と人との力はないか
     同じ時代をともに生きる
     したしさとおかしさとそうして怒りが
     鋭い力となって たちあらわれる

             (見えない配達夫)
 

茨木の一連の詩には確かな生活、実業がある。そして、「何処か」を希求しながらも、そこが「ここ」であるべきだと主張し続ける。茨木の時代の可能性でもあったのあろうか。今は「ここ」すらも危うくなっている。この詩「六月」が発表されたのが昭和33年で私が4歳の時、しかし、それからどんどん私の足元は崩れている。
優れた詩人は預言者でもある。そして、預言者の言葉は賞賛されても採用されることはない。
by garyoan | 2006-04-27 02:22 | 酔郷から
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