「素顔のモルモン教」書評のでたらめ

モルモン教徒で大学の教員の沼野治郎が自ら発行していた機関誌「モルモンフォーラム」
の中の記事の一部をモルモン擁護者のサイトにアップしている。
この記事の中に
推断と「今は昔」の内容・・「モルモン教と暴力」  (著者高橋弘、国際基督教大学「キリスト教と文化」26、'94年8月)  
という論文への批判記事があるのだが、この記事に関しては私が自分のサイトにコメントを書いている。

この沼野という人物はリベラルモルモンを気取っているが、モルモン教の真実が他人からさらされるのを嫌悪する性格のようで高橋弘教授が「素顔のモルモン教」を書いた時も、ヒステリックな書評を寄せている。
今回、「素顔のモルモン教」が再版されたが、高橋教授は沼野の書評に対して以下のように述べている。

(引用開始)
「モルモン・フォーラム」誌で、沼野治郎氏(当時、徳山大学教授)は高橋弘著『素顔のモルモン教』をとりあげ、これが悪意のある意地悪な書物であり、著しく批判的で偏向した暴露本だと結論づけている。著しく偏向した書物である証拠として、近年になってミズーリー州知事クリストファー・ボンドがかつての「モルモン教徒追放令」を謝罪した事実を述べるべきで、そうした事実を無視していると書いている。しかし、これは誤読に基づく言いがかりに過ぎない。事実、高橋は『素顔のモルモン教』146頁に、その事実に言及し、モルモン教会にたいしても公平を期している。(ただ、こうした沼野氏の書き方からすれば、彼は『素顔のモルモン教』を読んで、モルモン教徒としての立場からこれを読み、一時的にせよ、驚きとショックで完全に理性を失っていたと思われる。)
『素顔のモルモン教』で高橋が目指したことは、できるだけ客観的な視点から、モルモン教会の歴史を記述することであった。信仰というフィルター(色眼鏡)をかけた人間は、実際の出来事を、ある特殊な先入観からのみ解釈する傾向がある。そこに信仰的な意味を読み取ろうとするからである。
 したがって、使用する文献にも高橋は細心の注意を払ったつもりである。使用した文献は、沼野氏が指摘する、いわばモルモン教の敵・批判者のものを中心に用いた訳ではない。注意深い読者なら、高橋が用いた文献の八割方がモルモン教徒、あるいは元モルモン教徒のものであることに気づいたはずである。成功したかどうかを別にして、少なくともこの本を書くときに気をつけたことは、①バランスの取れた記述をすること、②そしてモルモン教に対する批判を述べるときも、実際にモルモン教徒の方々が認めている批判を載せるように試みたこと。また、モルモン教会を賞賛するときは、外部の人間が認めている賞賛の声を反映するように試みたことである。③また、モルモン教徒やモルモン教会の「途方もない発言」や「根も葉もない主張」にたいしては、客観的な事実をつきつけるよう試みた。
(引用以上)

高橋教授は沼野の本質を見抜いている。沼野だけではない、モルモン教徒にとっては信仰の保全が第一であり、それを失うことはアイデンティティの崩壊を意味する。批判もほどほどでとどめてもらわないと困るわけだ。だから、敏感に反応する。自己制御装置が作動するのである。
しかし、この自己制御こそがカルト宗教信者の特徴のひとつなのである。
by garyoan | 2005-01-27 07:02 | モルモン教
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