なぜ、切捨てられるか

 沼野治郎と「金科玉条」という言葉とを糸でつなぐと、そこには高山真知子という人物が引っかかって来る、沼野は高山が自身が主催する研究発表会にも招いて講演させるほどののお気に入りである。それは高山のモルモン研究が優れているからではない。「高山研究がモルモンに好意的であるから」だ。
 高山は継続的にモルモン研究をしているわけでもない。アメリカ宗教史、開拓史の研究家でもない。簡単にいくつかのモルモン研究書を読み、自らの宗教観とすり合わせて論文を書いただけなのだ。(高山はブリガム・ヤングについてもたった一冊の書籍を読んだだけで伝記を書いたと言う)
 さて、元記事では「異端と切り捨てずに云々」を「アメリカ宗教のメインストリームとモルモン教」と言う研究参加記から引いているのだが、モルモン教の歴史を学んだものなら、同所でのモルモン教の歴史認識には『?』がたくさん付く代物だ。特に一夫多妻制をアメリカの家父長制の回復運動という見方とはお笑い種である。
 現役モルモン教徒で、大学で英語の教鞭を取る沼野であれば、高山よりも深い知識を入手することは極めて簡単である。わが国最高のモルモン教研究家高橋弘氏の論文を読み、書籍に書評を寄せる沼野である。こうした不十分、正しくない点はしっかりと認識しているはずだ。しかし、沼野(そして、モルモン教)にとっては非モルモンで好意的な視点を持つものが咽喉から手が出るほど欲しいのである。腹の中では肯定的な考えしか認めないが、表面的には公正であると見せたいのである。
 単にモルモン教徒としての評価を下げるのであれば、好きで信仰しているふりをしているのだから、かまわないであろう。しかし、研究者をかたるのなら、最低限の公正さは身にまとうべきであろう
 また、教団自体に歴史に対する公正さがないから、モルモン教は過去には異端として、現在はカルトとして切り捨てられているのである。
by garyoan | 2005-02-19 23:52 | モルモン教
<< もうひとつの金科玉条 格調高い文 >>