2005年 09月 09日 ( 1 )

二上山散策(1)

台風が去って、天気も回復したのを機会にとうとつに二上山に行ってきた。10年ほど前に、二上山口から、登山口→大津皇子墓→雄岳→馬の背→雌岳→鹿谷寺跡→(下山)→鳥谷口古墳→当麻寺→当麻寺駅のルートを辿った。
今回は車で竹内峠にある万葉の森に行きそこから登ることにした。
8時前に到着、歩き始める。
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地蔵の辺りで、鹿谷寺跡へのルートをとる。
結構急な登り、竹内街道の自動車の騒音が徐々に遠ざかり、程なくって鹿谷寺跡に。
この辺りは古代凝灰岩の産地であったとのこと。高松塚の石棺もここの産出岩石が原材料とことだ。その削りだされた後に石仏などを掘り込んで寺院としたのがこの鹿谷寺。

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竹内街道はなにわの港から都を繋ぐ幹線路である。街道から見上げるこの寺院はなかなかの威容であったのだろう。
岩場を登りきると、いきなり舗装路に出る。そのまま雌岳の頂上に至る。

頂上付近の看板に面白いことが書いてあった。伊勢の斎宮、倶留尊山、三輪山、箸墓二上山、大鳥神社が太陽にの通り道の下にあり、東西の直線で繋がっているというのだ。あの有名な二上山の歌

 うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我(あ)が見む
 
を作った大伯皇女は大津皇子の姉であり、伊勢斎宮であった。ここら辺にもいろいろ古代のエピソードが感じられるが、それはまた後で・・・
頂上にはそうしたこともあってか巨大な日時計のモニュメントがある。

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しばらく景色を楽しんだ後、馬の背へ下り、雄岳を目指す。
途中、横にそれる道があったので、つい入ってしまう。少々ヤブっていたが、半ば強引に歩く。どうやら県府境のルートのようで、頂上に向わない。結局、雄岳頂上を巻いて、二上山駅方面からのルートと交わった。そこから南に登り返すと、直ぐに大津皇子の墓の前に出た。

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ひとりの男性が帽子を取ってうやうやしく礼拝している。
ここに円墳があるとされているのだが、実はそれが本当に墓かどうか以前より議論があった。山上に墳墓を作るという例は無いと言うし、山上の円墳とされるものは墳墓としての作法にも合致しないと言う。二上山の麓で鳥谷口古墳が発見された時、「こちらこそ本当の大津皇子の墓である」と言う意見が出た。私もこれが正しいと思う。大津皇子は山上にではなく山麓に眠っていると思う。大和から見て大津皇子は二上山を背にして眠っていると見たほうが大伯皇女の歌にもぴんと来るものがある。
そもそも、大津は刑死して直ちに二上山に葬られてたのではなく、移葬されたとある。大津は草壁皇子との後継争いで謀反の嫌疑で刑死したわけであるが、草壁もその3年後に病死する。世間には大津のたたりを噂するものもいたという。おそらくはその頃に大津は名誉回復されこちらに移葬されたのだろう。二上山は大変な交通の要衝であり、そこに祀られると言うことは死者にすれば光栄なことだったのではないか、と私は想像する。

それはさて置き、もしもこの山上近くに大津が眠っていないのなら、先の男性の祈りはなんになるのだろう。そんな意地悪なことを考えた。鳥居の向こうに大津はいないはずである。しかし、熱心な祈りは参拝者の立場では成立する。対象が自分の前にいると想定できればそれで良いのである。祈りを初め宗教的儀礼は畢竟生きている人間のためのものでしかない。
靖国神社もそうだ。そこでは戦死者を使った宗教家による宗教的イデオロギーの表現しかない。しかし、そこに小泉総理はヤスクニの教義(イデオロギー)を認めず、「戦没者を悼み、不戦の決意のために参拝する」と言う。本心であるなら、ずいぶん奇妙な信仰心だが、それほど死んでしまった人間は軽いのである。

そんな事をとうとつに思いながら、雄岳の山頂へ。

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雌岳よりも高いのだが、山頂は視界がない。葛木二上神社がある。本来は入山料として200円必要なのだが、徴収する人がいなかった。
by garyoan | 2005-09-09 15:20 | 私はやせる